このくにのサッカー

川淵 三郎 × 賀川 浩

対談風景

対談相手プロフィール

川淵 三郎(かわぶち さぶろう)
(写真右)(写真:ヤナガワゴーッ!)
1936年12月3日、大阪府生まれ。三国丘高校、早稲田大学、古河電工サッカー部でプレーし、日本代表として国際Aマッチ26試合出場、8得点。Jリーグ初代チェアマン、第10代日本サッカー協会会長、日本バスケットボール協会会長などを歴任した、日本スポーツ界のリーダー。2008年第5回日本サッカー殿堂入り。

対談の前に

 初代Jリーグのチェアマンとして日本サッカーのプロ化の先頭に立ち、今日のサッカー発展の功労者である川淵三郎さんはサッカーだけでなく日本バスケット界の改革、2020年東京オリンピックの招致にもかかわり、成功を重ねてスポーツ界でその見識と実行力を最も高く評価されるひとり。

対談

子どものころの夢は指揮者

賀川:川淵さんの小学校の生徒の時の夢は?

川淵 三郎氏(写真:ヤナガワゴーッ!)

川淵:僕は小学校3年生の時に終戦ですから、最初は陸軍大将ですね。5年生からは演劇少年で、NHKの放送劇にずっと出てたんです。でもその時も俳優になりたいとか思ったわけではなくて、吉岡たすく先生という、劇作家や児童文学研究家として有名だった先生のもとで、指導を受けていました。高校2年生まで続けました。ラジオに出たり、野球をやったり水泳をしたりいろんなことをしていました。

賀川:芝居を小学校の中でやってたんですか。

川淵:4年生から7年間やったんですよ。当時はNHKラジオの放送劇は生放送でした。まだテレビが無い頃ですからね。中学校になって民間放送ができたころから、収録が増えていきました。

賀川:人前でしゃべるのはその頃から得意だった?

川淵:そのときから慣れてましたね。中之島公会堂で公演したり。舞台もマイクなしでやってましたから、声が大きいのはそのせいじゃないかな。

賀川:なるほど。

川淵:そういう訓練は当時から行き届いたんですね。小学校の頃は海岸で相撲やったり野球やったりしました。当時はやっぱり、野球選手はあこがれですね。阪神タイガース、藤村、別当、土井垣。なりたいっていうより、ブロマイドをおまけでもらったりするのが一番の楽しみだったんですね。

賀川:当時のスターですからね。

川淵:そういえば小学校のときの放送劇は、劇中のBGMや間奏曲なども全部生のオーケストラでやるんですね。そこで指揮者ってかっこいいなと思い、指揮者になりたいという夢を持ちました。でもそのためになんかやったかっていうと何もやってなくてね。そういうことでは一番憧れたのは指揮者かなぁ。

賀川:なるほどね。指揮者はまぁみんな憧れますよね。構えたときに、みんなが集中する感じがね。

川淵:オーケストラ聞く機会なんて、普通の子供にはないわけですが、僕らはNHKの第1スタジオで本番の生の演奏をずっと聞いてました。

日本で一番上手かった先輩

賀川:サッカーでは、早稲田へ入っていきなり1年からレギュラー?

川淵:レギュラーになったんですよね。浪人時代、高校に行ってしょっちゅう後輩とサッカーをしていたから。

賀川:浪人の間も蹴っていた?

川淵:2年も浪人して、早稲田入ってレギュラーになる選手なんてそうはいないんじゃないですか。それぐらいものすごくサッカーをやっていたということでしょう。勉強はせずにね。早稲田は八重樫(茂生)さんとか轡田(隆史)さんとか、そうそうたるメンバーがいましたけど、いきなりセンターフォワードでレギュラーでしたね。その頃からもう賀川さんを存じ上げてるんです。

賀川:見てました。そうでしたね。東西大学1位対抗で東の代表が早稲田、その時1年生で体のしっかりしたのが出てきたということで川本(泰三)さんなんかと話してました。

川淵:川本さんが一所懸命応援してくれてたんですよね。早稲田に入ったことで、そのあと東京オリンピックまで成長することができたという感じがありますね。当時八重樫さんがキャプテンでいましたからね。日本中で一番上手かったのは八重樫さんと関学の李昌碩でした。その下で育ったことが、僕にとっては非常に貴重な体験だったということでしょうね。

賀川:その頃の目標は代表になろうと?

川淵:早稲田に入るころには代表になりたいって思っていましたね。その前は大学に行ってサッカーやるっていうのは、遊びの延長線上でやればいいんで、大学で一番強い大学に入ってサッカー選手として有名になれればいいなと。新聞に「超高校級」なんてずいぶん書かれたから、同じ年代ではまぁ上手かったんだろうなと思うけれども、代表なんてあまり考えてなかったです。日本サッカーもあまり強くなかったし。当時代表は緑色の、胸に「JAPAN」って入ったトレーニングウェアを着てたんですよ。今見たらあまりかっこいいものではないんだけど、あれを着たいなぁ、っていうのが憧れになりましたね。

賀川:あの頃はやっぱりトレーニングウェアを持っているっていうのは代表ぐらいですね。1960年にデットマール・クラマーが来て、彼が練習に出ていくのに横から見ていると、ピシっと筋の入ったトレーニングウェアを着ている。彼の一つのスタイルだったんですよ。

川淵:東京で行われた1958年のアジア大会には、大学1年の時に代表候補として選ばれたんだけど、関学との試合で肉離れして、合宿には行かなかったんです。それがフィリピンに負けたチームです。あの試合を僕は見ていたので、すごく印象深いんです。

賀川:あの時はアジアで一番弱いはずのフィリピンに負けたからね。そこから日本のサッカーの立て直しが始まったんですよね。

川淵:そうですね。その年の暮れから東南アジア遠征が始まるわけですよ。そこで僕らは初めて日本代表に選ばれたんです。フィリピンに負けたことがきっかけで鴘田(ときた)さんとか岩谷さんとかは外して若返りをしていこうっていうんで、僕と渡辺(正)、二宮(寛)あたりが若手の代表で遠征したんですよね。当時はアジアで香港だけがプロがあって、香港が一番強かったんです。香港で第1戦やって負けて、その時は「上手いもんだなぁ」と思いました。初めての国際試合でしたからね。

賀川:香港のサッカーは日本のサッカーみたいに速くはないけれど、ゆっくりキープしてね、それが上手いから。

川淵:テクニックがね。そういうトリッキーなサッカーを見たのが初めてでしてね。引き球とか、日本ではちょっとあんまりお目に掛かれないような。

賀川 浩(写真:ヤナガワゴーッ!)

賀川:選手としては東京オリンピックの同点ゴールが輝かしい記録であるわけですけどね。その前に、大宮かどこかの試合の時に…

川淵:そうそう、ヤシンの。

賀川:ヤシンからゴールを奪ったでしょ。

川淵:早稲田を卒業して、古河に入って結婚式したばかりで。

賀川:そうでしょ。本来ならそこから新婚旅行行くはずのを行かないで…

川淵:行かないで日本代表チームに帰ってきたんですよ。結婚式終わってすぐ汽車で、とりあえず帰ってきて試合出て、新婚旅行行ったんですね。その時に賀川さんが産経に僕の記事を書いてくれたんです。大事にとってありますよ。「新婚初夜はGK片伯部(延弘)と同じ部屋で」とかって。(笑)

賀川:あぁ、片伯部と同室だったから。

川淵:スクラップでちゃんと残ってますよ。川口陸上競技場で試合をして2-2で引き分けたんですよね。で、僕は1点入れて、「『これは新婦に捧げる点だ』と言った」と賀川さんが書いてくれた。

賀川:そこまで書いたかどうか。

川淵:書いた!確かに書いてあった。

賀川:あの話はね、大宮から帰るときに健さん(長沼健)の車に乗せてもらってね。車の中で、「川淵は新婚で新婦をほったらかしてきたんだ」という話を聞いて、試合よりもそっちの話の方が面白いから書いたんです。

川淵:12月8日が結婚式だから、12月9日っていうのをよく覚えています。世界のNo.1の選手に選ばれた(※)ヤシンのゴールを破ったっていうことも思い出深い。あの頃あんな記事はあんまり載らなかったんですよ。枠組みで縁取りした記事は。
※1963年にGKで唯一となるバロンドールを受賞

賀川:囲み記事ですね。

川淵:賀川さんに僕のことを書いていただいたんです。だから賀川さんの顔を見るといつもそれを思い出すんです。

東京オリンピックでのパニック

賀川:1962年のこのときから代表チームの監督・コーチを長沼・岡野(俊一郎)で行こうとなったんですね。それまではロクさん(高橋英辰:元日本代表監督)がやってましたからね。

川淵:でもその頃、僕はちょうど脊椎分離症で、腰がもう相当悪くて、太腿にしびれが来て、練習やってても1時間ぐらいしたら痛くてどうにもならなかったんですよ。だから東京オリンピックもかなり厳しいかなという感じでBチームに落とされたんです。ヤシンとやったのはBチームでした。僕も落とされたことで非常に悔しい思いをして、ケガでしょうがないなと思いながらも、やめるかやめないかですごく迷ったんですね。でも東京オリンピックが間近にあるし、みんな期待してるじゃないですか。最後は痛みがとれて、体が割合もとに戻ったんで、オリンピック出られたんですけどね。しんどい時期でしたね。

賀川:なるほどね。クラマーと一緒に試合を見ていたら、あなたのことを「あのスピードは捨てがたいからね」と言っていましたよ。

川淵:そうですか。うれしいですね。そんな話を聞いたのは初めてですよ。

賀川:確かペナルティエリアの右側を縦にズバーッと出て中に返した。その時のズバーッと出る出方がね、ものすごく速くて、威力があったのを覚えています。その話をクラマーとしてたんですよ。

川淵:Bチームで外国のチームとやって、右でかなり選手を抜いていった、その試合だと思いますね。「なんで川淵をBチームに落としているんだ」という話を聞きましたから。

賀川:僕が監修した「サッカー日本代表 世界への挑戦」という本のなかで日経新聞の武智幸徳さんが川淵さんにインタビューしたのがあるんですけどね、そこに東京オリンピックのアルゼンチン戦の同点ゴールの時は靴が気になってあんまりよくなかったと言っていましたね。

川淵:アシックス、当時はまだオニツカが、その頃はシューズの底が皮だったんだけど、プラスチックの底を初めて作ったんですよ、アディダスなんかがやっているような。それで僕にサンプルで使ってくれて。ポイントもねじのものを初めて僕に作ってくれて、カンガルーの皮でものすごく軽かった。東京オリンピック前のヨーロッパ遠征に、それを履いてレギュラーを獲得したわけですよ。そのシューズが本当に良くてね。ポイントがねじ込み式で、昔みたいに皮でできているわけじゃないから、芝にしっかり食い込むんです。それでメンバーに選ばれたなって思っていた。ところが僕はスパイクの手入れなんかあまりやらないタイプなんですよ。もう使ったらほったらかしで。八重樫さんとか宮本征勝なんて終わったら靴磨きでスパイクを磨くような人だったですが。

賀川:釜本もしますね。

川淵:僕は全然しない。東京オリンピックの前はずっと雨だったんですよ。練習は全部雨。試合の時にそのシューズを履いたら、雨の後に手入れしてないから、ちょっと伸びてた感じはあったんですね。それで練習やってたら、皮と靴底の間に芝生が入ってパカッと開いてしまって、それでパニックになっちゃった。予備のスパイクっていうのは、使い古したポイントの皮のちびたシューズでした。雨で湿っている芝生の上だからすごくスリッピーで、90分のうち80分ぐらいはなにもやってないんですよ。今ならハーフタイムで代えられるっていうぐらい出来が悪かった。それが、釜本からのセンタリングで点を決めた。

賀川:シューズのことでパニックになっていたなんて誰も思わなかったでしょうね。

川淵:本当にパニックになりましたね。

賀川:最後は小城(得達)が決めて、きっちり勝った。あの東京オリンピックの1勝は非常に大きい勝利でしたね。

川淵:大きかったですね。当時の日本のサッカーを世界に知らしめたってところまではいかないけど。

賀川:4年間やってたった1勝と言われるかもしれませんけどね、あそこで一つも勝てなかったら大変なことですからね。

川淵:なんとかいい試合をしたいという思いで、クラマー以下4年間頑張ったわけですから、結果が出て本当に良かったと思いますね。それがメキシコにつながるわけですね。

賀川:そういうことですね。あの頃のメンバーの中で八重樫さんは別として、36年生まれは相当年長のほうですよね。合宿ではどんな立場だったんですか。

川淵:先輩後輩っていう感じじゃなくて、みんな対等っていう感じでしたよ。小城とか若い選手は4年間一緒じゃなかったけど、若い連中も仲間っていう感じがずっとあったから、上下関係が厳しくチームの中で存在したかというと、そんなことはなかったですね。

賀川:ヨーロッパへ行けばともかく、日本での合宿はごろ寝みたいなもんで個室があるわけやないですからね。今から見れば気楽な感じでしたね。

川淵:若い者がボールを手入れしてとかいうことはなくて、対等な立場でやってましたね。

日本サッカー絶望の時代

賀川 浩(写真:ヤナガワゴーッ!)

賀川:そういう選手の経験があって、本当はメキシコまで行きたかったかもしれませんけど、日本サッカーリーグ(JSL)の運営にもかかわるようになりましたよね。その頃に日本のサッカーの将来をどういう風に考えておられました?

川淵:絶望的でしたね。国際試合を日本でやってもお客さんが入らない。代表チームが国立競技場で試合するってことがあんまりなかったくらい地方巡業していましたね。代表の監督をしたときに読売の選手を呼んだら、代表は勘弁してくれって断られたりした。読売にいたほうが待遇がいいし、海外に行ったらホテルも日本代表より上等だし、手当ももらえるだろうし。当時は代表って新聞に大きく乗るわけじゃないし、代表になってそれがどうしたの? っていう時代だった。それが一番ひどいときは1970年代の終わり頃かなぁ。あの頃の日本代表の存在っていうのは、ほとんど世間に認められてなかった。とにかく韓国になかなか勝てない。東南アジアにも勝てない。オリンピック予選でマレーシアに完敗しましたよね。

賀川:1971年、ソウルでね。マレーシアに0-3、韓国にも1-2で負けています。

川淵:マレーシアにこんな負けるのかと、あの頃が一番絶望の時期ですね。JSLにはお客さんも入らないし、細々と企業が応援して、サッカーをしている選手の就職先としてはありがたいな、ぐらいのことですかね。将来日本のサッカーに明かりが見えるなんて思いはほとんどなかった。

賀川:あの1968年の銅メダルで一辺頂点には登ったけど、しばらくしてから、ガタンと来たわけですよね。

川淵:JSLの記録を見ても、1968年の11月に三菱とヤンマーと国立で試合をして、釜本・杉山の対決で4万人と発表したぐらい入った。それがピークで、どんどん下がって、平均1000人ぐらいになるんですね。平均1000人ってことは1000人割ってるっていうことですよね。あの頃は水増しして観客発表していたから。その頃の日本サッカーは本当にみじめな感じですね。

賀川:単独チームでもそんなに人気のあるチームはなかったし。対外試合で勝って人気を上げないかんけど日本代表は勝てなかった。

川淵:勝てないですしね。だから日本代表の価値っていうのはほとんどゼロだったんじゃないですか。オリンピックなんか出られるわけがない。何をやっても負ける。お客さんが入るのは、「さよならペレ」とか、それからエウゼビオが来たときとか、マラドーナのワールドユースあたりですよね。ゼロックス・スーパーサッカーとかで海外の一流のチームを呼んでもらって、感謝の気持ちがすごく強かったのを覚えています。

賀川:81年から始めたトヨタカップの外国チーム同士の試合で、ようやく国立がいっぱいになるというころですよね。ラグビーは早明戦でいっぱいになっていました。

川淵:サッカーはいつも負けていて、日本人同士の試合で国立が満杯になるのは高校選手権の決勝だけだという頃ですよ。

賀川:ワールドカップでラグビーが頑張っていい成績を上げて、一気に人気になりました。ラグビーの人たちが「サッカーは人気があっていい」って言うから、「何を言ってるねん。ついこの間までラグビーの方が盛んで人気があったんや」って僕は言ってるけど、ラグビーの早明戦がトヨタカップと同じぐらいお客が入ったということがね、ラグビーの人もわかっていない。

プロ化「検討」という言葉の意味

賀川:その日本のサッカーリーグ、あるいは日本のサッカーをどのように改革していったのでしょう。

川淵:1982年の初めですけど、もうサッカーなんかどうにでもなれと思った時期があった。建白書みたいなのを、僕が監督辞めるときに出したんだけど、なんの音沙汰もなくてね。斬新な「日本サッカーこうするんだ! ああするんだ!」っていうのはなくて、行き当たりばったり。だから夢と希望を持てるわけがなかったんですよ。

賀川:むしろFIFAなり、AFC(アジアサッカー連盟)から出てくる国際試合の日程をこなしていくのに精一杯みたいな感じでしたよね。

川淵:僕は古河の人事で関連会社出向って言われて、このままそこに出向して仕事をしても、将来のある程度見通しがつくような仕事だから、限界があるわけですよね。その時に、サッカーっていうのは世界中で一番盛んなスポーツだから日本だってそうならない可能性はないわけじゃない、と考えてもう一度サッカー界に戻りました。そこで何とか日本のサッカーを人気のあるスポーツにしたいと思ってJSLの総務主事になったんです。そこで、いろいろ需要を調べたり、どういう可能性があるか自分なりにいろいろ動いたんだけど、どう考えたってプロ化以外に変える方法はないなということです。プロになって成功するかどうかはわからない、今の状態じゃほとんど成功しないだろう、でも思い切ってやってみるか、という感じですね。企業のサッカー部の人は「サッカーのプロ化なんてとんでもない、余計な金がかかるだけだ」ということで企業の幹部を説得するのは難しかったんです。反対の人の声の方が大きいから。これはもうこれで置いておいて、サッカー協会を口説いた方がJSLを変えられると考えて、協会のなかにプロ化検討委員会を設けてくれって言ったんです。そこからですよ、スタートは。

賀川:(長沼)健さんや、年長の者が言ったんじゃなくて、あなたの方から検討委員会を設けてくれと?

川淵:長沼さんは「まあいいんじゃないか」と言ってくれて、長沼さんと村田(忠男)さんは前向きだった。当時は藤田(静夫)さんが会長で島田(秀夫)さんが副会長です。僕がプロ化検討委員会を設けてくれって言ったら、島田さんがすごく反対されたんですよ。それで、「プロ化『検討委員会』を作ってくれと言っているんで、検討した結果、プロ化が無理ならやめればいいので、検討することの何が悪いんですか」と説得して、そこから僕の主導で進んだんです。長沼さんが来て、「全面的にバックアップしてやるから、どんどん積極的にやれ」って言ってくれたんですよ。

賀川:検討してプロに向かうとなってからが大変だったでしょう。Jリーグの開幕直前に事務所に行ったら、みんな30秒刻みぐらいで働いてましたよね。忙しい最中に川淵さんと近所に天ぷらを食べに行った。ビールを注文するときに、Jリーグのスポンサーのほうにしてくれと言ったので、なるほどと思いましたよ。

川淵:そうしてみると本当に付き合い長いですよね。

スピーチ上手の自己嫌悪

賀川:子供の時の話が出ましたけど、いつも感心するのは話をされるときの上手さというのか、Jリーグの開幕の時の挨拶は歴史に残っていますけども、そのあともね、あちらこちらで聞かしていただくたびに、どこでこういうことを修行したのかなと思って。

川淵:それは小さい時の吉岡たすく先生の存在が大きいと思いますね、人前で話すのも声が大きいのもそうだし。それと関西人の、人を乗せようというところがあると思いますね。話をしてもなんかユーモアのあることを言うのと、なるべく自分に正直に、普通は人の悪口言うようなところじゃないけど、自分の気持ちがそうなら、そういうのもぱっと言っちゃうとかね。あとで自己嫌悪に陥ることも結構あるんですよ、本当に。そういうのでずっと来てますから、嘘も隠しもない感じの話が「そうか」と思ってもらえるかも知れないですね。

賀川:まぁ裸で見てくれるという感じですよね。

川淵:そうですよね。だからまぁ敵も多かったりするんですよ。しょうがないですね、それは。

賀川:我々の若い頃は物を上手く書く人間がしゃべるのは下手なのが当たり前だというような、妙な考えもあった。そのせいもあるけども、僕はしゃべるということに関してはいい加減なところがあるから、余計にあなたを見てると感心する。

川淵:いやいや、ありがとうございます。

賀川:それは人にものを語るということがどれだけ重要かということがわかってるからでしょうね。

川淵:さっきの協会の理事会の話にしてもね、「決定しろ」と言っているわけじゃなくて「検討しろと言って何が悪いんですか」とポイントをついた発言というのは絶対必要です。それからできるだけユーモアを交えて、堅苦しいばかりの話はしたくない。僕は今、首都大学東京の理事長で大学、大学院、高等専門学校、そして堺のアカデミーの4つの卒業式でしゃべらないといけないんです。入学式も4つ。それでみんな同じことを言えないでしょう。大学は大学、というように。これがまた考えるのが大変でね。総花的に言ったって誰も聞いてはいないし、だいたいみんな僕の言ったこと覚えててくれよっていう思いでしゃべったって、誰も覚えてるわけじゃないんで、なにかポイントをひとつ決めて、なるべく短い言葉の中に意味を込めて言おうとしています。大学の場合には祝辞といって用意してくれるんですが、一切そういうのを使ったことはない。みんな自分の言葉です。

賀川:ブエノスアイレスでの東京オリンピック誘致の時にしゃべられたでしょ? それがすばらしかったって。

川淵:英語のスピーチですね。あまり覚えてないけど「僕は東京オリンピック出たんだ」と。あそこで東京オリンピック出ているのは誰もいないから、初めにそれを言ったのがインパクトあったんじゃないですか。

賀川:なるほどね。東京オリンピック出た者が、次の東京オリンピックの招致にかかわっていると。

川淵:当時は「日本の試合を見たいけど、チケットはないか」って言ったら、「サッカーだけあるよ」と言われたという話があるが、今度はそうはいかない。今度の東京オリンピックはチケットが一番初めに売り切れるのはサッカーだろう、と。

賀川:なるほどね。それはええ話やね。自分の思ってる通りに言うたんやね。スケートの平松純ちゃん(平松純子、旧姓:上野)が「賀川さん、川淵さんは英語のスピーチも上手ですねぇ」って。

川淵:英語のスピーチはね、原稿をネイティブスピーカーが読むテープを取ってもらって、それをずっと聞く。発音よりイントネーションなんですよね。だから演説を終わったら僕がすごい英語うまいってみんな思ってくれて、あとで困るわけ(笑)。

中国の課題、日本の役割

賀川:サッカーは協会も大きくなったし、世界との付き合いもできるようになってきた。これから、どういうふうになっていってほしいですか。

川淵 三郎氏(写真:ヤナガワゴーッ!)

川淵:アジアのサッカーがヨーロッパ・南米に比べてレベルが低いので、ヨーロッパと匹敵するぐらいのレベルまで引き上げないと、日本のサッカー全体のレベルも上がらないし、人気も上がらない。日本のサッカーの人気を上げるためには、世界レベルのサッカーでないといけないですよね。問題は日本だけアジアの中で強くなるなんてことは不可能だということ。特に中国に前から僕は関心持ってるんだけど、中国の若手選手の育て方って全然ダメですよ。一握りの40〜50人の選手を3、4年間南米とかヨーロッパでキャンプを張らせてそれが代表になればいい、ということをやってるんですよね。今は習近平がサッカー大好きで、なんとかサッカーを強くしようとしていろんなことをしています。Jリーグができる頃は、アジアの中でワールドカップで最初に優勝するのは中国だろうと思っていたけど、今の中国にはワールドカップで優勝するなんていう可能性は全くない。草の根のサッカーを盛んにさせないと。エリートのトップアスリートだけを育てて強くなるかといったら大間違いだって、ずっと言ってるんですよ。日本においても同じこと。

賀川:同じことですね。

川淵:トップアスリートとグラスルーツは両輪で、そこができないから中国のサッカーは発展しない。岡田(武史)に聞けば、省が違えば言葉も違うし、思いも違うし。国のために戦おうという気にならないと言うから、それをどう変えるかっていうこと。スペインもそうだったでしょう。それがスペインはワールドカップ勝ったわけで、どうしたら中国の代表チームが強力なチームを作れるかということを考えた方がいいといつも言ってるんですけどね。中国が強くなれば日本も大変ですよ。切磋琢磨していくことで、ヨーロッパと対等にやっていける。今でも中国はすごくサッカーが盛んで、お客さんも多いけど、まだまだレベルは低いですよね。中国人が育っていない。オーナーが10億、20億お金を出して監督とか選手を海外から連れてきてるけど、あのままで中国のサッカーが伸びていくとは思えない。中国人の選手をどう育てるかっていうところに我々としてはもっと協力するべきです。

賀川:そうですよね。日本サッカーのように地道にずっと草の根まで下ろして、そうすると草の根が広がれば、自分たちが思っている以上にいい素材がどっかからぽんぽんと出てくる可能性があるんですよね。

川淵:そう、それなんですよ。

賀川:(リオ五輪予選で)U-23が勝ってくれたからものすごいうれしいけど、2部、3部のクラブからでてきている選手もいるわけですよね。それだけいろんなところに日本の選手が広がっている、広いところから出てくるというのがね、今の日本のサッカーの強みだと。コーチングコースや、無駄かもしれないことをいろいろやってきたけど、組織的にやって、コーチのレベルもみんな上がってきて、それが全体に厚みになってるんじゃないかなと思うんです。

川淵:おっしゃるとおりですよね。指導者の指導者をどう育てていくかってことが大事ですしね。福島にJFAアカデミーを作って、今は熊本や堺、今治にあります。選択肢の一つとして、フランスやイギリスでやっているようなことやって、サッカーの一流選手にならなくても、他の小学校や中学校や高校では受けられないような授業をここで教えていこうってやっているんですね。「こういうのを作ったって意味ない」、「これをやって何人育ってるんだ?」なんて人がいますが、そんな短い、短期的な目で見てくれるな、と。百年の大計ですよ。

賀川:20年、20年、20年やっていってね。

川淵:日本はすぐ結果を求めたがるんですね。長い目で見て、とにかく人物を育てる。そのなかから10年に一人かもしれないけど、素晴らしいサッカーの選手を育てる。そして日本だけ強くなろうとするんじゃなくて、中国もサポートする。アジアの発展には力を尽くすべきで、東南アジアにかなり指導者が行ったりして、いい方向に行っていますよ。

賀川:中国はちょっとでかすぎるけど、中国が動いてくれんことにはね。

川淵:今は日本人選手が中国のリーグに行ってないでしょう? 中国にいろんな選手が呼ばれて、中国人からスーパースターのように扱われて、日本人が尊敬されるような関係になったほうがいいんですよ。

賀川:そうですね。サッカーで仲良くなれば違ってきますからね。

川淵:それが一番早い道ですね。給料は韓国が一番安くて、中国が高いんですよ。だから選手がすごく甘やかされている。オーナーがすごく金出してるから。韓国の選手はみんな日本に来るけど、中国の選手は日本に来ないでしょう。給料が高いから。それが中国のサッカーの発展を阻害してるところでもあるんですよね。今の地位で十分、何もワールドカップ出なくたってこれだけ給料もらってたらいいっていうことになる。

賀川:そうですね。昔から朝鮮半島と日本のサッカーと中国のサッカーはちょっと違いますからね。彼らの日本人にない感じが入ってくればちょっと違うんですけどね。

川淵:そうですね。そういう方向でうまく、シナジー効果でレベルアップしていくことが必要かなと思いますね。アジアの各国はJリーグがアジアナンバーワンだと認識してくれているわけです。だからいかに多くの国に、日本サッカーのノウハウを伝えるか。

賀川:今やもう日本サッカー自体がそういう立場にあるわけですね。

川淵:そうですよ。敬意をもって見られているので、より積極的に果敢に挑戦するっていうことが必要だと思いますね。

恩師はクラマー

賀川:ここまでやってきて、誰に一番礼を言いたいですか。

川淵:やっぱりクラマーですね。クラマーがいなかったら今の僕はない。

賀川:僕もそうです。日本のサッカーも彼のおかげでここまで変わりましたからね。

川淵:躊躇なくそう言えるのがありがたいですよ。「うーん」とか迷わずに。クラマーしかいないって。

賀川:ひとつひとつの言葉の使い方から選手一人ひとりの接し方からねぇ。やっぱりちょっとずば抜けてましたよね。

川淵:ずば抜けていました。ありとあらゆる指導者見ているけどクラマーに勝てるのはいませんね。

賀川:僕もいつもそう思うんですよ。日本に来る外国人の監督はかわいそうだねって。僕はいつも腹の中でくらべますからね。日本の幸運のひとつですね。

川淵:すごいラッキーでしたね。本当にクラマーさんにはいくら感謝の言葉を述べても述べ足りないというね。吉岡たすく先生とクラマーさんという、恩師と言える人が2人もいるすごく得した人生ですね。

川淵 三郎氏(写真右)(写真:ヤナガワゴーッ!)

賀川:川淵さんを恩師と思っている人はどれぐらいいますかね。

川淵:そりゃいないんじゃないですか。

賀川:いやいや。いずれいい後継者が出てくるとは思いますよ。

川淵:それは絶対出てきますよ。育てろと言うけど、育てるもんじゃなくて、勝手に出てくるんです。おこがましいですよ、育てるなんて。まぁ今の目標は賀川さんのお年まで元気に生きるのはちょっとむりだけど、東京オリンピックまでなんとかがんばって、見届けたいです。

(2016年2月)


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