このくにのサッカー

岸本 健 × 賀川 浩

対談風景

対談相手プロフィール

岸本 健(きしもと けん)
(写真右)(写真:フォート・キシモト)
1938年北海道生まれ。1957年からスポーツ写真を撮影し、1966年に日本初のスポーツフォトエージェンシー、株式会社フォート・キシモトを設立。世界最大級のスポーツ写真ライブラリーに育て上げた。オリンピックは1964年の東京オリンピック、サッカーワールドカップは1970年メキシコ大会から撮影。日本選手団が不参加となったモスクワ・オリンピックでは、国際ポスターコンクールで金賞を受賞し「日本唯一の金メダリスト」として注目を集めた。

対談の前に

 フォート・キシモトは世界に通じるスポーツ写真で知られている。日本体育協会が御茶ノ水にあったころから体協に出入りするようになり、東京オリンピック(1964年)でスポーツ写真家として一気に知られるようになった。

 スポーツでは勝ち負けも重要だが、フォート・キシモトのカメラ報道によって、選手のフォームの美しさ、ひたむきに走る迫力が多くの人の心に食い入るようになり、スポーツの愛好家に新しい目を開かせ、新しい魅力を提供した。

 サッカーではトップクラスの選手、コーチの表情を捉えて、一人ひとりの表情から彼らのプレーとは違った人間性を引き出すことで、さらにサッカーを新しいものに見せたのも岸本さんの仕事だった。

 岸本さんにカメラの楽しさ、スポーツ写真を撮る面白さを聞いた。

対談

スポーツ写真の黎明期に

賀川:そもそもカメラというものを持って写真を撮られたのはいつごろのことでしたか。

岸本:中学校の高学年のころですね。私は網走の近くの遠軽(えんがる)というところで生まれているんです。貧しい山の中で、熊が出るようなところです。終戦直後の厳しい中で、そこの少年教護院にうちの親父が奉職していたんです。

賀川:そこで、中学生の時にカメラを手にされた?

岸本:そうです。友人のカメラを借りて仲間たちを撮ったりしたのが最初です。ただ当時、小さいものでも写るカメラといえば、今の車みたいなもので、当時の中学生にとって絶対に触ることもできないし、使うこともできないようなものです。現像も手でやりますからね、液体のなかに浸して。そこに浮かび上がってくる映像を見て、「あぁこういう仕事をやりたいな」と思ったんです。僕がカメラに魅せられちゃったというか、それがスタートです。
 人からカメラを借りるぐらいで、買うことができたのはもちろん高校を出てしばらくしてからです。それまで人から借りてやっていたというのが実状ですし、なかなかフィルムなんて買うことができませんでしたからね。

賀川:いつごろからカメラで人生をやっていこう、その中でもスポーツを撮っていこうと思ったのですか?

岸本:高校卒業して、東京に出てきて銀座の写真館に入ったんですけど、営業写真、肖像写真ばかりで「この道は違う」。ただ、当時、私より先にたまたまスポーツ写真に関わっていた人がいまして、その方と知り合ってそこで教えられたというか、修行しました。昔の言葉でいうと、丁稚奉公と言いますか、そういうことは技術の世界って絶対必要なんですけれど。

賀川:内弟子みたいになったわけですね。

岸本:はい、それこそ便所掃除から何でもやりました。ラーメンが25円か30円の頃に「もうちょっと大きいのが食いたかったな」と思うような環境で、それが二十歳ちょっとすぎぐらいまで続きましたね。東京オリンピックの時、バレーボールの大松さん(博文、女子バレーボール日本代表監督)が夜遅くに練習しているのを写真撮りに行くのですが、フィルムが3本か4本しかないんですよ。だから非常に貧しい取材で、すぐになくなってしまうんですけど、いつまでも粘って。夜中の2時ごろになって「岸本さん、泊まって行きな」なんて言われてですね、泊まることは泊めてもらうんですけど、翌朝一番電車に乗ってすぐ帰ってくるというようなことをやっていました。それ以外の種目も、しつこく、粘り強く、練習から追いかけていました。それが今の財産になっています。

賀川:東京オリンピックはおいくつの時になります?

岸本:26歳です。その前のローマ・オリンピックの前から、古い岸記念体育会館の中に入り込んで、ゴソゴソやっていましたね(笑)。でも、周囲には各競技団体の重鎮が出入りしていましたから、そんななかでスポーツのすごさっていうものを感じて、やってきました。

賀川:御茶ノ水駅の向かいの高台ですね。歩けば音のする木造の建物でしたよね。その中に一部屋持たれた写真家というのは岸本さんが初めてですよね?

岸本:いいえ違うんです。当時、岸体育館に一人岩波写真文庫の仕事をやっている方がいらっしゃいまして、そこに僕が転がり込んだというのが実状です。だからローマ・オリンピックのときも、僕は直接現地に行ったわけではないんですけども、結団式から始まって、送り出してまた迎えて、というのをやってきてもうすぐ60年になるのです。

賀川:あの頃ちょうど西鉄旅行が体協の仕事を受けて入るようになりましたよね。僕はそのときに岸本さんが体協の建物の中に入られているのをチラッと見ながら、「へぇ、カメラもカメラやけど、観光会社もみんな体協を相手に仕事になるのかな」と思っていました。

岸本:千葉・検見川のサッカーの合宿所にも行きました。最近うちのコレクションから出てきたのが、クラマーさんが英語で指導している写真ですよ。「クラマー指導練習」って書いてあって。多分そのとき撮影していたやつですね。

賀川:なるほど。

岸本:クラマーさんの練習中の写真だっていうから、サッカー協会でも持ってるはずないだろうしね。この間はベルリン・オリンピックの村社(むらこそ)講平さんの写真も出てきました。

賀川:レニー・リーフェンシュタールの『民族の祭典』に出ておられた方ですね。そんな貴重な写真まであるんですね。そういうものをもう一度、整理することは必要ですね。

岸本:貴重なものなんじゃないかなって思いながら、それを使ってこれからなにができるか楽しみにしています。

「勝った負けた」だけが写真ではない

賀川:岸本さんは、スポーツ選手を、直接、間接、ずっと見て来られた。自分で撮られて、被写体として「これは絵になる」という選手はだれですか?

岸本:選手個人よりも、体の線が見えるスポーツですね。柔道着を着ている人よりも水泳の選手だったり、レスリング、ボクシングであったり。やっぱり筋肉が見えるというのが魅力的ですね。重量挙げもそうですけど、今日は公開日だからと撮りに行って、囲み取材みたいな形になっても、本当の表情が出て来ないんですね。だから僕は「いいよ、公開のやつはいらない」って言っているんです。できるだけ、本当に力を入れてがんばっている表情を僕は撮りたい。だから選手と仲良くならないと撮れないですね。

賀川:僕ら物書きはね、なんだかんだ言っても悪いことを書くこともあるかもしれないから、そう仲良くはなれないけど(笑)、カメラの人はすぐ選手と仲良くなりますよね。もちろん撮った写真をあげるということもあるでしょうけど、カメラの人には特殊な才能があるのかな。

岸本:そうですね。そんなことが大きなコミュニケーションツールなって、僕らはやってこられたのではないかと思います。

賀川:例えば、マラソンのアベベ(エチオピア)みたいな選手は撮りやすいほうでしたか?

岸本:まぁ表情が無かったですからね(笑)。だけど、どこかで会ったりするときは本当にリラックスして、家族と一緒に来ていたんですけど、選手村の中で草刈り機を動かしていたり。そういう意味では選手村も当時は非常にのどかでしたし、僕はあれが最後の選手村だったのかなと思うんですね。今はもうそういうことは絶対ありえないですから。

賀川:オリンピックは何回?

岸本:夏と冬、合わせると27回ぐらい行ってますね。ここに資料も相当数あるんですけど、ほとんどのフィルムを今は国立市に持ち込んでいます。競技団体やJOCにもないような写真も多くあります。1984年に冬季オリンピックをやったサラエボでは、その後の内戦で写真が残っていないんです。そこでフィルムを何万点とスキャニングして向こうに送ってあげたりしました。
 この間はIOCの人たちが東京まで来て、スクラップ帳を見て、印をいっぱいつけて帰りました。3年間かかったかな。今、富士山の中腹、標高約1200mのところに、100坪ぐらいの地下資料室を作って、写真を整理して次の世代にどういうふうに渡したらいいかって考えているところです。フォトグラファーが撮っているものは勝った負けたの写真だけじゃないんです。東京オリンピックのとき、僕は「撮らなくてもいいよ」と言われた選手村の日常を撮っていたんですが、そういう写真は、今、他のどこにもないんです。50年経ってみると、それは財産になるんだということがわかった。残しておかないと、なくなってしまうんです。昔はIOCの人たちがそういうものを残して、次の時代の人たちが使えるようにすることを支えていたけれど、今は「お金を払わなければ駄目、使わせない」と全部クローズしてしまっている。それは間違いなんです。僕はたまたま文部大臣やっていた馳浩さんと親しくしていたものだから、「スポーツの写真っていうのは積み重ねていくことが記録なんだよ」って言ったら「それは良い仕事だ。ありがとう」。いや、ありがとうって言われたってこっちも困るんですけれどね(笑)。
 資料を次の世代に、何とか残す方法を考えていかないと。やっぱり個人の力としては限界がありますね。だいたい1世代で終わっちゃうんですね。

賀川:そうですね。こういうものを残していこうと思えば、やっぱりどこかで公共のことになります。ただし公共のところというのは、田辺製薬の社長さんだった田辺五兵衛さん(元日本サッカー協会副会長)に言わせると、「保存はしてくれるけどそのままになっちゃう」と。

岸本:おっしゃるとおりです。

賀川:自分でやろうと思ったら大変で、なかなかやろうと思っても進まない。だから自分が死んだあとの図書なんかもどこへ回そうか考えているんだ、と僕もよく相談されましたけど。田辺さんの資料に関してはうまくいって、神戸フットボールクラブで全部もらったんですけどね。

岸本:その話は有名ですよ。

賀川:私の分は神戸の中央図書館に持って行ったんですけどね。でも何をやるにしても画(え)が無いとだめなんですよね。写真がないとね。今はもう写真が一番貴重で、どっかの引き出しから一枚出てきたら「あ、これは取っとかないとあかん」と言うことになるんですけどね。専門家が撮られた写真が残っているかどうかということはとても重要なことになりますよね。

僕の一番嫌いな「連写」

賀川:写真を撮られた、あるいは写真を通して付き合った中で、デットマール・クラマーという人はどんな感じでした?

岸本:クラマーさんは初めから日本が好きになったんでしょうね。もう本当に、「なんであんな人が来てくれたのかな?」っていうぐらい。お付きの人もジャーナリストの方たちともみんな仲良くやってこられて、やっぱり「日本サッカーの父」なんだなということをしみじみ思っています。サッカーの世界では、クラマーさんのさらに前、戦前のベルリン大会の人たちもいるわけです。このままその人たちの名前が消えていっていいのか、という気持ちが僕にはあるんです。この間は西鉄にいた野球選手の方が「自分が持っている写真を残しておきたい」と来られましてね。こういうものを残しておかないと。終戦時は茨城にいて、特攻するはずだったけど燃料がなくてそのまま終戦を迎えたと。賀川さんも。

賀川:そうです。朝鮮半島の飛行場から特攻するはずでした。

岸本:やっぱり、こうやってなんだかんだ言いながらも平和なところでスポーツって成り立つし、オリンピックというのは平和運動なんですね。あんまりかっこいいことを言いたくもないんですけど。そういう意味では、スポーツの果たす役割というか、力っていうものも含めてしっかり伝えていきたいなっていう気はしています。ただ、その気持ちはまだ解決されていないです。コレクションを見たらみんな「これはみんなに見せようよ。展示会を全国津々浦々でやっていこうよ」と言ってくれるんです。だけどスポンサーに「やろう」と言うと、なかなか事が進まない。

賀川:例えば、東京オリンピックで一枚だけ残せと言われると「そんなの選べるか」というようなものでしょうけど(笑)、あえて一枚選んでみるとすると何になります? やはり開会式ですか?

岸本:やっぱり小野喬さんの選手宣誓ですかね。僕も個人的に仲人をやってもらったりしたんですが、高らかに世界に宣誓される姿を見ると涙が出ますね。

賀川:なるほどね、宣誓のところね。

岸本:ああいうものが再び行われるようになってほしいし、それを純粋な気持ちでみんなが受け止めてもらえるような社会ができていればいいなと思う。けど、今はまたテロだとかなんだとかいうことでね、なんかきな臭くなってきている。僕らは体操やレスリングの会場で、北朝鮮と韓国の連中が、それぞれ勝った、負けたが決まったあとで、握手して別れているのを見ているわけです。もしお互いが銃を持つようになったとき、本当に撃てるのかというと「やらないな」という顔をしていると僕は見ているんですよ。だから、そういう場面が記録として残って次の世代に伝わっていくことも一つの大きな教育なんじゃないかなというような……、ちょっと最近はロマンの方に移ってますね(笑)。

賀川:試合をして握手を交わすところをカメラのファインダーで覗いてそれを写してみれば、よりそういう気になるでしょうね。今は、写真はご自分では?

岸本:今は撮りません。

賀川:サッカーというのは他のスポーツに比べて撮るのが難しいとかそういうことはあるんですか?

岸本:今はないですね。昔は片方の目を開けてもう片方は普通つむるっていたんですけど、今は両方の目で、望遠レンズと一緒に肉眼でも追わなくちゃだめなんです。だけどレンズの方がフォーカスが自動になっちゃってるんです。困ってるんですよ(笑)。えらい時代が来ちゃったなーと思いますね(笑)。
 日本のカメラは世界で一番進んでいるんです。ピントを合わせなくてもいい、露出は見なくていい、結局僕の一番嫌いな連写するというやつです(笑)。これは下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるということになるわけなんです。連写は一つの技術であることは事実なんですけど、あそこまで撮らなくてもいい。1試合1000枚だったものが、今は1万枚です。あとで整理するのにものすごい時間がかかる。「ここで撮りたいんだ」という脳の指令と指先の指令が一緒に出て、その時は「しまった」と思っても、いいものが撮れる場合もあるんです。

賀川:そうですね。今はこの一瞬で撮るというのではなくて、バチバチバチと撮っている。当たっていればその一瞬になるけれど…。

岸本:気持ちを一瞬に添えなければ、やっぱり選手が使っているエネルギー写真に上手く出ないんじゃないかな…。今も昔もそれは一緒ですね。

賀川:なるほどね。一瞬を狙って撮っているカメラマンは僕らのころにはまだいましたね。

岸本:いましたね。カメラが今1秒に10枚ですからね。10秒やったら100枚になっちゃうんですよね。これはシャッターとは言わないですね。僕は失敗することもあるかもしれないけど、どこを撮りたいのか。着地なのか、それともジャンプして一番高いところを撮るのか、そこを今は1週間、1ヶ月かかってもそこを狙う。整理ができない状態になってしまっているわけですよ。そこを考えていかないと。やっぱり速いだけではだめだなと思いますね。だけど本当にいいカメラがいっぱいできて、そういう意味では今の人は恵まれています。ただ本当にいいものを撮ろうと言うんだったら、テーマ性を持たないとね。

賀川:やっぱり今は日本のカメラの方がいいのですか?

岸本:もう圧倒的に。今はカメラとは言わずに家電と言っているくらいですけどね(笑)。だけど、やっぱり狙って撮る習慣をつけていかないと。

賀川:どんなに機械がよくなっても一発必中は必要だということですね。

岸本:そういうことですね。スポーツごとにすべてシャッターの数というものを頭の中に入れておかないと。

賀川:写真の場合、色の問題がありますよね。今は写真の色というのは自然の色とほとんど同じものが出ているんですか?

岸本:いや全然(笑)。やっぱりフィルムがいいですね。フィルムでないと本当の色が出て来ない。じゃあもとに戻した方がいいのかって言ったら、そうもいかないんですね。それを知って色を調整するとかシャッタースピードをどう持っていったらいいか、そこまで考えないといけないですね。しかも、データ化しても10年20年のうちにはまた(次のフォーマットに)変えなければいけない、それが何回もこれから続いて行くわけなんですよね。それだけに100年は最低持たさなきゃいけないと言う気持ちは自分の心の中にありますから。

賀川:古い写真をもう一遍きれいにするという技術が進んでいますよね。そういうのは昔から見れば猛烈に発達しているわけですか。

岸本:そうですね。もう今はフィルムも安くスキャニングできるんですよ。まぁ、もうぼくの世界じゃないな……って泣き言を言ってもしょうがないんですけど(笑)

賀川:これだけたくさんのカメラの機能ができて、印刷物がきれいになっていることは確かですけど、いわゆる一般大衆の新聞、雑誌というなかでの写真の扱いは専門家から見られてどうでしょうか。

岸本:文字も必ずあったほうがいいと思います。やっぱり文字と映像と言うのは両輪のようなもので、そのなかでも特に書いている人たちのことを僕がものすごく尊敬するのは、やっぱり書いたものを残すということは、嘘は書かないということです。

賀川:そうですね。

岸本:特にスポーツの場合はね。「あぁこの人の書いていることは間違いない」ということが根付いてくれば、僕は非常にそれを大切にしたいなと言う気はしていますけどね。

賀川:「LIFE」という雑誌が戦後の日本にバーっと出てきて、僕はあれで感心したのは、写真の説明の短い文章がうまくてね、簡潔ですごかったですね。

岸本:そう、あれが一行入るか入らないかでがらっと変わって来るんですね。あんまりしつこくある必要はないんですけど。

賀川:ポスターみたいなものでも、何か意味のある字があることで、それを見た人が感銘を受ければ、そのポスターの図柄、写真自体も活きてくるということですね。

岸本:本当にそうですね。

次の世代に渡すために

賀川:ちょっと話が変わりますけど、今までカメラを通して日本のスポーツ、日本のサッカーをずっと見て来られた岸本さんは今後をどのように考えられます? たとえば、「東京オリンピックが終わって何が残ったんだ」って言うと、日本のサッカーが盛んになった。90年代に入ってサッカーが急激に盛んになって、野球と同じようにプロのリーグも始まってやっていますが。

岸本:先輩に向かっておこがましいんですけど(笑)、これはまったく驚きなんですよね。本当に苦労した人たちがここまで築き上げている。他の競技だと、だいたい上の人たちというのはメダルを取った人がずっと座ってるんですけど(笑)。

賀川:選手だった人が多いということですね。

岸本:そうです。その人たちがすべての司令塔になってしまって、なかなかその次の世代に落としていくということがなくなっちゃってるんですよね。そこをもう少し、スポーツの楽しみ方みたいなものを含めて次の人たちに渡していったほうが、教育のためにも、社会全体のためにもいいんじゃないかなという気はしますね。儲ける人もいていいし、これから伸びる人たちがもっともっと出てくると思うし、スポーツはまだ悪くなるということは、よほどのことがないかぎりはない、しばらくは伸びるだろうと。福島もまたJヴィレッジが復活する、大阪にもいいのができた。ただ、そこは役所化しないでやってもらいたいですね。

賀川:競技団体も中央の仕事を始めると不思議に役所みたいになりますからね。

岸本:そうですね。今、オニツカさんのほうから回ってきた仕事で、あの会社はバスケットボールのシューズからスタートしているという関係で、80年ぐらい前の籠球の機関誌の1号みたいなものが出てきたんです。でも、その話をしても協会は全然興味を示さないんです。そういう資料を僕のところで持っている必要は全然ないんですけど、そういうものが入ってきちゃう。協会に持って行って渡しても「ああどうもありがとう」って言われて終わりです。

賀川:JOCが基金を集めて、そういうものを保存してくれればいいんですけどね。

岸本:いや、まったくそういう動きはないですね。秩父宮ミュージアム(秩父宮記念スポーツ博物館・図書館)にしても。競技団体も同じなんですけどね。

賀川:それにしても岸本さんの写真と知識の蓄積に驚くばかりです。今日はどうもありがとうございました。

(2016年4月)


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