このくにのサッカー

黒田 和生 × 加藤 寛 × 賀川 浩

鼎談風景

鼎談相手プロフィール

黒田 和生(くろだ かずお)
(写真中)(写真:中島真)
1949年、岡山県生まれ。東京教育大卒業後、神戸FCコーチ就任。84年、滝川第二高監督就任。87年、全国高校サッカー選手権初出場。2005年、全日本ユース選手権優勝。07年、ヴィッセル神戸普及育成事業本部長就任。2009年からはユース(U-18)監督も兼任。12年に台湾へ渡り、ユース育成統括/U-13・18代表監督を歴任、現在はA代表監督。

加藤 寛(かとう ひろし)
(写真右)
1951年、岡山県生まれ。大阪体育大卒業後、神戸FCコーチ就任。95年、ヴィッセル神戸に移籍し、ユース監督、スクールマスター、普及部長、ホームタウン事業部担当部長、トップチーム監督を歴任。現在は神戸親和女子大学教授、同校サッカー部監督、日本クラブユースサッカー連盟会長、神戸市サッカー協会副会長などをつとめる。

対談の前に

 1970年、日本初の法人格市民スポーツクラブ「神戸フットボールクラブ(神戸FC)」が誕生した。クラブのスタート時に東京教育大(現・筑波大学)を卒業し、コーチとなった黒田和生さんは、14年後に移った滝川二高で同校を全国有数の強豪校に仕上げた。高校を離れてからはヴィッセル神戸の育成世代を指導し、その後日本サッカー協会(JFA)から台湾に派遣されて、現在はアジアのサッカーのレベルアップにつとめている。
 加藤寛さんは神戸FCの創設者・加藤正信さんの次男で、父親のサッカー熱の影響で、デットマール・クラマーが主任インストラクターをつとめた第1回FIFAコーチング・スクールの助手として雑務をこなしながら、クラマーの指導に接する貴重な経験を積んで、神戸FCのコーチ、ヴィッセル神戸の育成からトップチームの監督までを引き受けた。
 神戸で旗をあげたクラブで修業を積み、生涯をサッカーに捧げる2人の語りを楽しんでいただきたい。

対談

「街のクラブ」で学んだこと

黒田:僕が神戸FCに就職を決めたのが1970年だから、もう40年以上ですね。

賀川:加藤正信先生と「コーチとしての教育を受けたプロのコーチが必要だ。来てもらうには高校の教師の給与程度は払わなければいかん。そのためには、就職してもらう母体の神戸FCそのものが法人化していないといけない」ということになって、そこからは加藤先生得意の早業で法人格を取ることになったんです。あなたに来てもらうために法人格をとったわけやね(笑)。

黒田:その発想はいつごろからあったんですか。

賀川:日本サッカー協会の会長にもなった藤田静夫さんたちが「京都サッカー友の会」をスタートさせたものを真似て、東京オリンピックの前年の1963年に「兵庫サッカー友の会」というのをつくりました。JFAの副会長だった玉井さんはじめ、神戸のサッカーの有力者が集まったんです。

加藤:友の会には5つの目標がありましたが、あれはどなたが考えられたのですか。

賀川:それは加藤正信先生ですよ。

加藤:まずは少年サッカーの普及、誰でも入れるクラブをつくる、国際試合のできるサッカー場をつくる、いたるところに芝生のサッカー場をつくる、そしてサッカー王国神戸・兵庫を復活する。

賀川:正信先生のいちばんの目標はサッカー王国神戸の復活でした。「自分たちが選手の頃は神戸が強かったからそれを再現したい」と。5つの目標は日本全国で通用するものだったから広がったんです。メンバーに朝日新聞の大谷四郎、毎日の岩谷俊夫、産経の賀川浩がいて、クラブが出来たということが大きく新聞に載ったから影響力はあった。

加藤:私の父のやり続ける力もあったと思うのですが、私は父の周りに大谷さんや賀川さん、岩谷さんという世界のサッカーの情報を知っておられる方がいたということ、海外からサッカーを取り入れた神戸という土地に育った、神戸一中の優秀な人たちが揃ったということが、すごいなと思っています。

賀川:やはり神戸ということでしょうね。戦前から外国人の居留地にグラウンドがあって、それは戦時中も畑として耕されることもなく残っていたわけです。

黒田:私は学生のときに神戸でサッカースクールがあるという情報は聞いていて、関心はありました。いろいろな経緯があって来てみると、「こんなサッカーを好きな人たちがよく集まっているな、えらいところへ来たな」と思いましたね。「ここにいていいのか?」と、ちょっとノイローゼになりかけた。

賀川:あなたが最初に来たときに、「私は岡山でも、東京の大学でも何事も遅くて牛と言われていた。でも牛はゆっくりでも歩みを止めないから、そのうちになんとかします」と言うてたね。

黒田:そんなこと、言ったかな(笑)。

賀川:なんとかどころか、大コーチになっちゃった(笑)。大谷さんがいろいろ世話してくれてましたね。四郎さんはもともと名選手でもあったけども、サッカーの理屈に筋が通っていたからね。岩谷くんが「理念とか理屈は大谷さんに任せときましょ」と言ってた(笑)。「それを実現する仕事は僕らがやればいい」と。

黒田:筋が通ってましたね。

加藤:大谷さんはクラブユース発足時にJFAで大喧嘩したこともありましたね。神戸FCの理事会でも夜遅くまで喧々諤々と議論されていました。

黒田:正信先生は実際家で自分で進めていくでしょ、そこで四郎さんの理想論が出てきて衝突するわけですよ。

加藤:プロ化の気配もなかった頃でしたが、先ほどの5つの目標は、今でも革新的ですよ。なんであの発想をあの時代に皆さんが持てたのか、ずっと不思議で仕方ない。

賀川:僕ら3人は新聞社で世界の情報も入ってくるので、外国のクラブはどうだとかいう話はよくしていましたね。それと正信先生自身が、神戸一中でKR&ACとしょっちゅう試合をしていて、外国人スポーツクラブを見ていたから、それが頭の中にあったでしょうね。あの頃は、試合が終わったあとに紅茶を出してくれたんですよ。それで、「ああ、これがクラブというもんなんやな……」とおぼろげながらに思っていましたね。

黒田:僕は神戸FCで13年指導経験を積んで学校(滝川二高)に出てしまいましたが、いちばん感謝しているのは、少年の指導からスタートできたことなんです。それと25歳のときに、ドイツやイングランドに1カ月ほど海外研修に行かせてもらったこと。お金もかかったけど、行くにはJFAのA級コーチのライセンスも必要で、大学を卒業するときに「取ってこい」と言って行かせてくれた神戸FCのおかげで資格もあった。海外に行ってみると、大谷さんや賀川さんのおっしゃっている通りで、「すごいな!」と刺激をうけた。卒業前の1カ月、「なんでこんなときに資格を取りに行かされるんだ」と思いながら検見川に缶詰めになって。大谷さんが平木隆三さんに「黒田を頼むぞ」と言ってくださっていたのは後から聞きました。そんなライセンス制度や年齢制をつくって、日本の協会を動かしてきた人たちが身近にいたわけですね。

賀川:大谷さんが「世界の流れはこうなんだ」とアイデアを出すと、正信先生が東京に行って一席ぶってくるわけやね。それでJFAも少年の指導に目を向けるようになった。正信先生の実行力と大谷四郎の理論やね、これが両方うまくいったから。

加藤:父が事務局長をしていて、ひとりで何もかもやっていたのを、「組織にしてクラブ員がそれぞれの年代のことを運営できるような組織にしましょう」ということになった時に、なかなか父は理解できなかったときがあったみたいでね(笑)。そのあと大谷さんが事務局長になられて組織化ができた。

賀川:最初は加藤先生みたいな人が一人でやらなければ成り立たないわけで、それを大谷さんが「みんなで運営するクラブにしよう!」と。神戸FCのそういう流れを見ると、日本のサッカーの歴史の流れと同じだと思いますね。

加藤:親父にとっても幸せな人生だったと思いますね。

「やる」と「やらされる」の違い

黒田:加藤さんはクラブを存続させるために何にいちばん苦労した?

加藤:今も街のクラブが一番苦労するのは、経済的な面ですね。われわれコーチを雇ってもらって、生活費を払ってもらう。その費用は誰が払うのかといえばメンバーシップで会員が負担するということは大原則なんですが、最初に黒田さんが来られるときに、賛助会員としてアシックスとモンブランと日本触媒といったところからお金をもらっていた。今で言うスポンサーシップですね。それを最初からやっていたのは、今から思えばすごいことです。サッカースクールも、昔は神戸少年サッカースクールしかなかったですから、神戸高校のグラウンドに、西は姫路、東は大阪から生徒が集まってきていた。ところがそういったスクールが増えてきて、いまや六甲アイランドの中だけでも5つか6つのスクールがあるんです。ペルージャ(イタリア)のサッカースクールまである。誰でもサッカーをできるようになった環境はすばらしいと思うんですが、神戸FCの財政基盤である会費収入は減少する。それで私は、こちらから出向いていくスクールをクラブの理事会に提案しました。

賀川:指導者を自分たちで持っていたという強みが大きかったということやね。

加藤:その後、1995年の震災のときにヴィッセルに移って、普及と育成の組織づくりをさせていただいたのは、僕には良い勉強になりました。震災はかなり厳しかったですね。練習できるグラウンドがなくなったし、交通の便は遮断されたし……。

賀川:磯上は廃材置き場になってしまったしね。

加藤:その直前まで私は事務局長をしていたんですけども、幼稚園児から80代まで会員が1500人ぐらいいたのが、震災で多分半分ぐらいに減っちゃったんですよね。それがいちばん厳しかったですね。

黒田:僕の加藤君のイメージはね、戦ってるイメージね。中体連、高体連といつも戦っていたね。

加藤:そうですかね(笑)。でも神戸の場合は学校の先生の中にもクラブの理解者がいたということがすごく心強かったですね。

黒田:いたけど大半はアンチなんだから。

加藤:でも、Jリーグが始まって世の中が180度変わりましたよ。

黒田:それはわかるけど、そうなるまでが──という話だよ。少年の指導者はみんな一所懸命、子供のためにやっているけど、中学生、高校生年代の先生になると、「なんで地域のサッカークラブなんかつくるんだ?」って時代だったね。

加藤:日本サッカー協会が財団法人化するときに、大谷さんや平木さんたちが定款の原案をつくられたと思うんですけど、その中で登録を身分制度から年齢制度に変えた。世界の基準に合わせましょうということで、学校のチーム以外の地域のクラブが協会に登録して試合をすることができる道が初めて拓かれたわけですよ。

賀川:それまでサッカーはね、大学、高校、社会人というように身分で決めていた。それを「スポーツは社会的身分でするものではない」と。成長度に応じて体の大きさや強さは違ってくるわけだから年齢別なんだ、ということでヨーロッパの年齢別という考え方を取り入れた。少なくとも神戸FCが日本における先鞭をつけたのは確か。

黒田:登録はできたけど、神戸FC青年部は試合する場所がなかった。

加藤:それは大谷さんもずいぶんご苦労されていました。

黒田:市レベルでは受け入れてもらっても、県、関西、全国へは出ていけない時代だったからね。子供たちもよく続けた。

加藤:高校の大会には出られなくても、社会人の大会には出させていただいて、彼らはひじょうにがんばったと思いますね。

黒田:神戸FCの週に1回か2回の少ない練習の中で、みんなよくレベルを上げたよね。

加藤:それが良かったんじゃないですかね。

賀川:「サッカーしたい! したい!」と思って来るからね。やらされているという感じではなかったからね。

加藤:そこがいちばん良かったと思いますね。

黒田:そのときから「やる」のと「やらされている」の違いはわかっていた?

加藤:うーん、ちょっとは考えていましたね。

黒田:最近わかったんだけど、昔はそこまで気がつかなかった。

加藤:大谷さんからそういうことをよく言われていて。

賀川:それは大谷さんの持論でね、「指導者はやる気になってもらうように選手を導いていくもの。結局自分がやらなならんのや」と。「こうだ、ああだ」と型を教えてみても、それを反復練習するのは自分ですからね。言われて反復練習するのでなくて、自分から反復練習しようと思ったときに上達する。

加藤:それは神戸一中の「自重自治」のような、大谷さんや賀川さんが若いときに身につけた精神がサッカーにも現れているんでしょうね。

賀川:それはあると思います。自分たちで勉強して、自分たちでやる。デットマール・クラマーみたいな優秀な指導者が5人も6人も日本にいたわけやないんやから(笑)、自分たちで探っていかなければいけない時代でしたね。

加藤:今は、環境が整いすぎたというか(笑)。

黒田:一時、教えるのが仕事だから教える、選手も教えられるのがあたりまえになって、ちょっと停滞した時期がありましたね。

賀川:このごろはコーチの皆さんも「選手にやらせるんではなくて、選手がやるんだ」というふうになってきている気はするんですけどね。それと、僕らがサッカーをはじめた昔はサッカーはラグビーと同じように走り回る激しい競技だ、と思われていたけども、ボールを扱う楽しみを味わうところから神戸FCはスタートしたから、その楽しみを知った連中が「年を取ってもやろうか」ということになるんですよ。初めから「走ることだけでしんどい競技や」という印象で始めたら、長続きしないですよね。それは大事なことやと四郎さんは言っていましたね。「楽しい」ということからやらないとね。

加藤:日本の街のクラブにそういう考え方をもう1回ちゃんと伝えるべきやと思うんですよ。私は日本クラブユースサッカー連盟の会長をしていますけど、Jリーグのクラブだけでなく、街のクラブにも、それぞれのクラブの想いとか考え方があって、その理念に従って、自分たちのクラブで考えたサッカーのスタイルが少年からおじいちゃんまで揃うようにする。そしてちゃんと法人化したクラブになればもう少し日本はヨーロッパに近づけるのかな、と考えています。最近、子供からお年寄りまで、レベルにあわせてスポーツを楽しめるような環境が日本の中に生まれてきました。上手な子はプロの世界とか海外にどんどん出ていけばいいし、そうでない普通の子は、ずっとそのクラブで楽しめるようなスタイルがもっとあればいいなと思います。


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