このくにのサッカー

加茂 建 × 賀川 浩

対談風景

対談相手プロフィール

加茂 建(かも けん)
(写真右)(写真:中島真)
1943年東京生まれ。芦屋高校、関西学院大でサッカー部に所属。トヨタ自動車に就職した後、独立して1968年に創業。1971年に加茂商事(株)を設立。「サッカーショップ加茂」を全国に展開し、国内最大級のサッカー専門店を築く。現在は選手のマネジメント、施設企画などの会社の社長を兼任している。

対談の前に

 サッカーショップ加茂の主(あるじ)加茂建さんは関西学院大学(関学)サッカー部出身で、加茂兄弟の末弟。長兄の豊さん(故人)はゴールキーパーで日本代表。三番目の兄の周さんはヤンマーのコーチとして釜本邦茂さんたちの成長を助け、日産や日本代表の監督をつとめたトップ級の指導者。建さんはサッカー小売店を大阪でスタートし、東京に進出。各地に店を構えて日本でもっとも有名なサッカー専門店をつくりあげた。たくさんのチームやプレーヤーに用具を提供し、サッカー界に精通している。

対談

皆の「たまり場」になった店

賀川:加茂さんのお店に最初にお世話になったのは、大阪・梅田の第一ビルのお店でした。1974年のワールドカップ取材に行って、帰国してからもう一度映像を見たいということで、何度もお店に通ってビデオで決勝(西ドイツvsオランダ)の映像を見せていただきました。

加茂:あれはちょうどオープンリールのビデオからカセット式に変わったときで、ソニー製の高価なレコーダーでしたが、思い切って購入しました。わざわざ三重県や広島といった遠方からもお越しになる方もあって、それで店の認知も高まりました。

賀川:会社にもビデオはなかったので、何度も店にうかがいました。(ヨハン・)クライフがドリブルをして、左に(ヨニー・)レップがいて、西ドイツ側には(フランツ・)ベッケンバウアー一人しかいない場面があった。あの映像を何度も見ました。ベッケンバウアーがスタスタっと下がるシーンで、何歩下がったか数えながら。

加茂:あの守備はすばらしかったですね。最後にクライフがレップにパスしたら、ゴールキーパーの(ゼップ・)マイヤーが飛び出してきましたね。

賀川:ベッケンバウアーが下がる間にマイヤーにポジションをとらせていたんですね。その下がっていく姿をスタンドで見ていて、「クライフには抜かせないぞ」という思いが伝わってきました。ベッケンバウアーというのはすごい選手やな、と思って背中が寒くなったような気がしました。その場面をお店で見せていただいたんです。

加茂:賀川さんにお越しいただいていたとは光栄です。店に映像があるといいと思ったのは、ヤンマーの合宿所に納品に行ったときに、釜本さんが70年ワールドカップの白黒の映像を毎日のように見ておられたからなんです。
 42万円という高価なレコーダーを買ったんです。今の感覚でいくと、一千万円ほどの投資という感じの思い切った投資でした。あれが他の店との差別化になったかと思います。

賀川:それで店が皆のたまり場のようになってきたんですね。そのなかで、中学2年生の少年がドイツに行きたいと言って親を困らせているという話があって、それが岡田武史だったわけですが、それも加茂さんのお店が皆のたまり場だったからです。

サッカーショップと名乗った覚悟

賀川:店の名前は最初からサッカーショップ加茂でしたね。

加茂:いろいろな関連事業もありますし、会社は加茂商事ですが、店の名前はずっと同じです。私は兄弟3人が関学のサッカー部だったこともあって、それなりにサッカー界に知り合いもいたので、「店を出すなら、加茂スポーツというようなよくある名前ではなく『サッカーショップ』にしたらどうだ」というアドバイスをもらいました。そのアドバイスには今でも感謝しています。サッカーショップとすると、それ以外は扱わないということです。私も社員も含めて、サッカーからは逃げないという宣言になり、それがお客様に受け入れていただいて、道が開けました。

賀川:加茂という姓は、1936年のベルリン五輪のときのサッカー日本代表の加茂兄弟と同じですね。

加茂:そうなんです。東京に行くと年配の方からは「あの加茂兄弟の?」とよく言われましたが、血縁はありません。テニスにも加茂さんという方がいらっしゃって、そちらの話もよく聞かされました。

賀川:今のサッカー界では、周さんと建さんの兄弟が一番有名になりましたけどね。ご家族はサラリーマンではなくお店をやると言われたときにどんな反応でしたか。

加茂:父は茨城県の古河の出身で、毎日新聞の記者でした。そんな家系なので、商売をやっているのは少ないんです。最初はトヨタ自動車に入れていただきましたが、トヨタは日本リーグに参入せず、ラグビーに力を入れていました。兄がヤンマーにいて、釜本さんがヤンマーに入るという話があったころで、サッカーの普及にかかわる仕事をしてみたいと思いました。サッカーボールがまだ18枚か12枚パネルで、「これはバレーボールか?」なんて言われていたころです。

賀川:お店を出したのは、日本サッカーリーグ(1965年開幕)ができたころですね。

加茂:そうです。メキシコ五輪の年(1968年)に創業し、1971年に最初の店を梅田に出しました。最初はチーム相手に商売をしていましたが、チームの絶対数も多くなかったですし、個人のお客さんを増やさないといけないと考えました。トヨタではモータリゼーション時代の、今で言うマーケティングということで、免許証を持ってもらう、道路をつくる、所得を増やして車を買ってもらう、という話を門前の小僧のように聞いていました。それと同じでプレーヤーを増やさないとサッカーも商売にならないと思って、長沼(健)さん、岡野(俊一郎)さんや平木(隆三)さんに東京、大阪、名古屋で映画上映会を兼ねた講演会をやっていただきました。東京、メキシコのオリンピックの後ということもあって、いつも満席でサッカーに興味を持っている人が増えているという実感がありました。最初に御堂筋の御堂会館でマンチェスター・ユナイテッドが4-1でベンフィカに勝った試合を上映したとき、750席の席が一杯になってなんとか経費が回収できましたが、ドアを開けてお客さんがドッと入ってきたときに、「この商売はいけるかもしれない」と思いました。ものすごい熱気で、思った以上の反響でした。

賀川:Jリーグができたときに、雨のなかでも観戦に来て盛り上がっているスタジアムを見て、関西のテレビなどでは「なぜ急に盛り上がったのか」という話をしていましたが、それは昔から皆が努力してファンを増やしていったからですね。

加茂:私が関西で始めてよかったと思うのは、朝日に大谷(四郎)さん、産経に賀川さん、毎日に岩谷(俊夫)さんという記者がいらっしゃって、一般紙のサッカーの記事のレベルの高かったことです。我々にとっても励みになりました。


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